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天下の難所、箱根八里 旧街道石畳

 箱根旧街道は江戸時代の箱根越えの道で、通称「箱根ハ里」で知られる天下の難所でした。この急坂の多い山道は江戸時代初期、幕府の官道として整備されましたが、すねまでつかる泥道のため当時では近代的な石畳道を完成させました。そして今なお残る石畳には、往時の旅人の苦悩と喜びが偲ばれます。(国指定史跡)

 旧東海道に残る石畳は長い東海道の中でも箱根越えとして旅人には苦難の道でした。箱根八里とは小田原箱根か口ら芦ノ湖畔までの上り四里、三島までの下り四里をいいました。現在、畑宿から湖畔まで往時の石畳が保存整備され多くの人々が当時のおもかげをしのびながら散策しています。
芦ノ湖畔の旧東海道にある杉並木は樹齢約400年で、江戸時代のはじめ元和4年(1618年)箱根宿を設けたとき植えられたと伝えられています。
現在でも412本ほどの大木に往時の静かな佇まいが感じられます。(国指定史跡)

宮道の移り変わり

 平安時代の初め延暦21年(802)正月に富士山の大噴火があり、砕石が足柄道を閉鎖しました。
朝廷は5月に足柄道を廃し新しい宮道として湯坂道を開きましたが、翌21年に足柄道が復旧し、ふたたび宮道となりました。従って、平安時代の物語、紀行、和歌などを見ると、ほとんどが足柄道を越えた記録であり、湯坂道を越えたものの記録はきわめて稀です。平安時代はなお足柄道の繁栄期でありますが、湯坂道も箱根越えの道として利用され、平安時代末期には旅人の通過が多くなりました。湯坂道が宮道として用いられるようになったのは鎌倉時代からです。この道が芦ノ湖の南側の発展をもたらしました。箱根権現の顕揚も芦之場、湯本を初めとする湯治場の誕生も、この道の出現によって、もたらされたと言えます。
この道の経路を見ると当時の駿東の要駅永倉から伊豆国府である三島に出て、山田、小沢、元山中などの山間集落を縫い山伏山の南東の峠に出て、ここから湖畔に下り元箱根に達します。

 江戸時代の東海道に平行し、その北西側を走り、急坂が多いが直線的で、三島、箱根間で一里短く約3里の道程です。
当時の記録の多くには、この山道も野七里(のくれ)、山七里(やまくれ)、嶺七里(たけくれ)と呼び、峠を水呑峠といいならわしていました。さて、この道は芦ノ湖の南岸からは元箱根八丁坂を経て精進池畔に出て、芦之湯を経て鷹巣山(834メートル)、浅間山(804メートル)、湯坂山(546メートル)と、箱根火山の新規外輪山の尾根を通り湯本に下り、小田原に達するものです。芦之湯、湯本間の尾根道は湯坂道、湯坂峠と呼ばれ、湯坂道は箱根の東半を指しての名称でした。
この道路の賑わいとともに、足柄道時代の横走(御殿場)宿、坂本(関本)宿は次第に衰え、替わって三島、小田原の二宿が箱根越えの要駅として姿をあらわし、その中間にある芦川宿(箱根町箱根)、湯本宿も栄えていきました。

東海道第一の難所「箱根八里」

 江戸時代になると、江戸幕府は慶長9年(1604)新しい東海道を開設したため、箱根越えの旧観は一変しました。その経路は三島宿から笹原、山中、箱根峠(893メートル)を経て芦ノ湘南岸の箱根宿に道するまでの四里は、大半中世の箱根越えの道の東南側を平行して通り、箱根宿から元箱根付近までの湖岸は中世の道と一致しますが、元箱根付近より東方に別れて権現坂にかかり、二子山の南をめくぐり須雲川の渓谷に添いながら、畑宿、須雲川、湯本、台の茶屋などの集落を通って三枚橋に出て、ここから小田原宿に至ります。元箱根から湯本三枚橋までが二里半で、三枚橋から小田原宿までが一里半、合わせて全長八里あり、これを「箱根八里」といい、大人の足で丸一日の歩行ほどであったと言われます。
江戸の繁栄にともなって往還の旅人が引きもきらず、参勤交代する大名が次々と通り、昔にかわる山道の賑わいぶりを見せました。しかし道は石畳の急坂が多く、思いのほかに嶮岨であり、また芦ノ湖畔の関所も検問がきびしいので、箱根は「東海道第一の難所」といわれ、「天下の嶮」ともよばれました。

詳細

アクセス

  • 箱根湯本駅から旧街道経由元箱根港行きバスで「旧街道石畳」下車

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