『箱根全山』旅のテーマパーク箱根 - 箱根町観光情報ポータルサイト

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箱根の大名行列そのルーツを尋ねて

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 箱根では、毎年11月3日の文化の日に、「下に下に」と、毛槍を振り、総勢百七十人の大名行列が、旧東海道を練り歩く。まことに江戸時代の華やかな参勤交代をしのばせてくれる。このころは、箱根は全山紅葉に染まって美しく、紅葉狩りをかねて、毎年大勢の観光客が訪れる。箱根の大名行列の人気は、何といっても、僅か百数十年前まで、華やかな大名行列が実際に通り過ぎていった旧東海道で行われること、行列の最後を飾る長持担ぎの人足が唄う雲助唄に、往時の情緒がしのばれるからであろうか。この人気を博している箱根の大名行列は、どんなきっかけで行われるようになったのであろうか。

観光博覧会の目玉

 「箱根で大名行列をやろう」といい出したのは、箱根振興会(今の箱根町観光協会の前身)の役員で、底倉で梅屋旅館を経営していた鈴木七郎である。京都帝国大学に学んだ氏は、都大路を練り歩く京都の華やかな時代祭りに魅せられたのであろうか、箱根振興会の役員になると、「箱根で大名行列をやろう」としきりに提唱したという。最初は「夢のような話だ」と、誰も耳を傾けなかったが、ひょんなことから実現することになった。
 それは昭和10年、箱根振興会が主催して、湯本で観光博覧会が開かれることになったからである。その年の3月末から、横浜市では関東大震災の復興が成った記念に「復興博覧会」を行うことになった。このことを知った箱根振興会では「復興博覧会の客をそっくり箱根にいただこう」と、なんと、その年の2月になって「観光博覧会」を開催することを決めた。

 会場は明治の馬車鉄道の終着駅、今の旅館河鹿荘から翠山荘にかけてが、広い空地になっていたので、そこで開催することにした。
横浜が博覧会の第一会場、箱根が第二会場となった。箱根の会場は3月20日に地鎮祭を行い、僅か20日後の4月10日に開場している。このとき、会場の建物の建築に当たり、大名行列の槍投げの「奴さん」もやった五十嵐勝太郎の話では、一棟100平方㍍から130平方㍍の建物を、昼夜兼行で、2日か3日で作り上げていったという。そのバイタリティーには驚かされる。
 会場は、温泉風光館・史跡資料館・物産館・水族館などの、展示館が立ち並び、実際に温泉を山から引いて、会場で湧出させ、その温泉を客に飲ませて、効用の宣伝につとめたりしたというから、なかなかのアイデアである。さらに、箱根神社や早雲寺の宝物、それに嘉永6年の小田原地震を伝える瓦版なども展示したというからこれだけでもかなりの人気を博したはずである。
 しかし、当事者たちは「これだけではもう一つ魅力がない、何か目玉はないか」ということになり、かねて鈴木七郎が提唱していた「大名行列をやろう」ということになった。 ところが、既に明治維新から70年もたっていたので、大名行列を見た者はなく、どうやって大名行列をやったらよいのか、見当もつかなかった。そんな中で、大名行列の実行をまかされたのが、後に劇作家として名を成した若き日の北條秀司と、環翠楼主鈴木二六の両氏だった。北條秀司は当時は、箱根登山鉄道の経理課長をしていた。既に劇作の勉強をしていた北條氏が、師の岡本綺堂に相談したところ、氏は四條派の日本画家として知られた久保田米遷の長男で、同じ画家の久保田米斎を紹介してくれた。久保田は、当時松竹の顧問で、舞台装置と衣装考証の権威として知られていた。
 二人は早速、画伯を東京・荏原のお宅に訪ねて聞いてみたが、久保田ほどの人でも、大名行列がどんなものかわからず、錦絵を集めて調べてくれた。それでどうやら、「大名行列とはこんなものだ」という概念だけは掴めたという。
 そこで衣装を注文することになり、たまたま二六の兄十郎(後に小田原市長)が歌舞伎座の支配人をしていたことから、同氏の斡旋で松阪屋に大名行列の道具や衣装を注文した。これで行列の目鼻はついたものの、毛槍が振れないで、困っていたところ、松田町 (足柄上郡)の寒田神社の祭礼で小田原藩の大名行列の奴振りを伝えていることを知り、早速、高橋正太郎という松田町の植木屋さんに教えを乞うた。
 観光博の開場まで日がないので、高橋さんは環翠楼に泊り込みで教えてくれることになったが、「奴なんか、格好が悪い」といって、肝心の奴のなり手がいない。そこで、大工や鳶職などの職人を頼んだ。環翠楼の番頭二人も無理矢理けいこをさせられた。そのとき奴さん役を引き受けたのは次の12人だった。

 このとき、苦労して「奴振り」を憶えた人たちは既に大半の方が亡くなられた。生存しておられるのは僅か3人に過ぎない。その1人で環翠楼の番頭だった水島隆三は「社長の命令だし、旅館の仕事よりは楽だろうと思って引き受けたが、師匠が『駄目だ、駄目だ、もっと足を上げろ』というもんだから、足が痛くて、便所に行くのが辛かった」と述懐している。
 注文した衣装や道具が出来上ってきたのは、なんと、観光博が開かれる僅か二日前だった。それまではどのようにして、けいこをしたかというと、毛槍の代用に座敷ボウキを使った。挟箱は棒の先に、古い縄を束ねて代用した。後で鶏卵を入れる木箱をとりつけ油単(長持などにかける布)をかけて、やっと挟箱らしくなった。こうして猛げいこのかいがあって、二週間ほどで師匠から「これならまあいいだろう」と、お墨付きが出たという。 さて、待望の衣装や道具が二日前に届き、その夜初めて道路に出て練習をした。そのときは久保田もきて指導に当たったが、画伯を知らない新聞記者が、「歌舞伎座より着付けの権威者久保田米斎が出張して、指導に当った」(4月9日付横浜貿易新報)と報道したものだから、さすがの久保田画伯も苦笑していたという。

第一回の大名行列

 いよいよ凖備が整い、昭和10年4月10日、
箱根観光博覧会がオープンし、大名行列は開場式のメイン・イベントになるはずだった。しかし、あいにくの小雨に大名行列は延期され、4日後の4月14日の日曜日、正午に国鉄小田原駅前を出発し、観光博の大歓迎塔の前から「下に下に」と小田原城下を練り歩いた。今は総勢170人も行列が繰り出すが、このときはずっと少なかった。

この順で、総勢70人と当時の新聞は伝えている。それでも、明治維新によって、絶えて見ることのなかった行列だけに、大変な見物人が集まった。この日の模様を、横浜貿易新報は 「この全山未曽有の懐旧的催し物は、西湘の人気を集め、小田原駅は早朝から大磯、平塚、湯河原、真鶴方面からの見物人を満載、午前中駅頭人の山を築く、という有様だった」と報じている。

 行列が始まると、人気は毛槍と挟箱の奴さんに集中し、「格好が悪い」と嫌われた奴が人気を一人占めにしてしまう結果となった。このときの模様を鈴木二六は次のように話している。
  「当時の小田原駅は閑散としていたが、当日は大変な人出だった。奴さんの演技を心配していたが、いざ本番となると、実にうまくやってのけた。私たちは当日まで、どうなるものか、と思っていたのだが、警察官が出て交通整理をしなければならん、という盛況に、まずは大安心した―というのが、本当の気持だ」
 奴に次ぐ人気は、行列の最後を飾る長持担ぎの人足だった。杉崎長人郎・亀次郎の兄弟 が、あの美声で「箱根長持唄(雲助唄)」を披露したものだから、ヤンヤの喝釆を浴びた。杉崎兄弟は既に昭和6年4月、東京の神宮外苑で開かれた第6回郷土舞踊と民謡の会で、そのノドを披露したくらいの名人だったから、沿道の見物客を喜ばせたのも当然だった。唄の文句がいい。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」を初め、「竹になりたや箱根の竹に、諸国大名の杖竹に≒三島照る照る小田原曇る、あいの関所は雨が降る≒山の荷物は花なら蕾、立場(休憩所)立場で酒酒と(咲け咲けをかけている)」。
 この美声に、唄の文句のとおり、次ぎ次ぎに祝儀の酒が届いた。彼らはそれを長持に入れて担ぎながら、ひと休みすると、その酒を出して、チビリとやりまた得意のノドを聞かせたという。
 北條秀司は当時からかっぷくがよかったので、久保田から「お前はかっぷくがいいから、大名になって駕篭に乗れ」といわれたが、断って役は何もしなかったという。しかし、企画の段階から苦労されただけに、この日のことは「昔姿がズラリと整列したときは思わず昂奮を感じた」とその著『我が歳月』の中で書かれている。私がお訪ねしたときも、「大名行列、楽しかったネ、私もこういうことは好きだったから」と、当時を懐しがっておられた。

 こうして、沿道の喝采を浴びながら、大名行列は博覧会場に乗り込んだ。会場を一巡すると、見物していた新橋の芸妓衆が、もう橋の上で奴振りの演技を真似していたという。人気のほどがしのばれる。
 余りの人気に、博覧会の第一会場である横浜市の復興博覧会にも協賛出演し、山下公園から伊勢崎町まで練り歩いた。このときの久保田画伯の張切り振りは大変で、ヨロイ、カブト姿で行列に加わり大得意だったという。
 その久保田は、それから僅か1年10ヶ月後に幽門狭窄症のために亡くなられている。岡本綺堂は「米斎君の思い出」の中で、今度の病気は去年の11月、箱根の大名行列の世話に、お出でなすってからのように思う。(中略)もう10年ばかり生きていないと、仕事が片付かない。やりたいことがたくさんあるというお話だったので…と、書いている。箱根の大名行列に情熱を傾けられてしまったのかもしれない。御冥福をお祈りしたい。
 箱根の観光博覧会は、その年の6月8日幕を閉じた。3万5千人もの入場者があって、予想以上の大成功だった。大名行列の人気に負うところが大きかったのはいうまでもない、余りの人気に、会期中少くとも8回は大名行列を行っている、こんなに観光客に喜ばれるのなら、と、それから年中行事で大名行列を行うことが決まった。

傷病兵の大名行列

 大名行列は、年中行事として箱根の名物になったが、間もなく日中戦争が起こり、さらに太平洋戦争へと戦火が拡がるにつれて、遂に中止のやむなきに至った。
 この間、戦争で傷ついた兵隊さんが、義足で毛槍を振り、挟箱を担いで大名行列を楽しんだことを知る人は少ない。
 今の湯本富士屋ホテルのところにあった旅館三昧荘は、戦時中は陸軍の療養所だった。この旅館の主人が、大名行列の元締めだった箱根振興会の主事で、後に参議院議員になった石村幸作だったので、大名行列をやって傷病兵を慰問しようとしたらしい。
 ところが、傷病兵の方から「自分たちも参加したい」と言い出した。そこで水島隆三らが指導し、挟箱一人、毛槍一人、それに徒士を合わせて、15人位が参加した。皆義足の兵隊さんで、長い距離は無理なので、三昧荘から駅前を通って、今の観光物産館前まで、凡そ300㍍の間で演技を十数回もやって喜ばれたという。もちろん、毛槍や挟箱を受けるのは、水島らベテランの奴さんたちだった。
 戦争の激しさは、傷病兵の心をいやした、このささやかな大名行列さえ許さなくなり、大名行列の衣装は湯本駅前の加満幸の主人小林智恵次が預って大切に保存してくれた。樟脳さえ手に入り難い戦時中に、小林さんは使った衣装をていねいに洗濯し、大事に保存してくれた。その小林の努力が戦後すぐに実を結んで、大名行列は復活した。

復活した大名行列

 昭和二十二年五月三日、新憲法の発布を記念して、早くも戦後第一回の大名行列を行うことができた。車がほとんどなかった時代なので、国道1号線を30分もストップし、湯本駅前―塔之澤(折返し)―旭橋―湯場―滝通り―湯本ホテル横-旧街道―早雲寺のコースで行った。
 戦争の痛手は大きく、町民は着るものとてろくに無く、娯楽も全くない時代だった。敗戦で皆気分的にも滅入っていたので、新憲法のお祝いをパアッとやりたい気持ちが強かった。着るものがないときに、昔の侍の衣装がつけられると喜び、青年がこぞって参加した。戦場から帰ってきた先輩の奴さんたちが、一週間ぶっ続けで奴振りの指導に当たった。皆の気分が盛り上っていたので、僅かな期間の稽古でうまくなり、戦後第一回の大名行列は、総勢百人余りの堂々たる行列になったという。戦後のこととて、観光客はなく、見物しているのは地元の人ばかりだったが、皆大名行列を復活できたというだけで喜び合った。
 復活第2回の大名行列は、その年の11月3日、東京の宮城前で行われた。文化の日が制定されたのを記念しての全国芸能大会だった。付添いを含めて二百人も参加したが、困ったのは参加者の弁当だった。国民が飢えにあえぎ、闇米さえ手に入り難いときに、200人分のお米を手に入れることは至難のこと、とても参加できそうになかった。
 そのとき、露払いの役で参加した中村四郎が不敵な一計を案じた。町長に内緒で、当時湯本町に1台しかなかった消防車を借り出し、小田原市蓮正寺の農家から米二俵を買い求め、シートをかけて運んだ。白昼、消防車を使って闇米を買い出すなどということは、警察官も考えなかっだろう。途中、警察の検問にもひっかからず、米は無事に運び込まれた。早速、三昧荘で焚いて弁当を作り、大会に参加できたという。今の人たちには考えられないことである。
 こんな先人の苦労が実を結び、昭和51年3月には、アメリカ建国200年の祝賀行事として、ロサンゼルスやハワイのホノルルからも招かれるなど、今や観光箱根のシンボルになっている。

大名行列をどう伝えているか

 箱根の大名行列の奴振りは、松田町の高橋正太郎から教わった、と書いたが、実はこの奴振りは寒田神社の門外不出のものであった。松田町文化財保護委員井上清の調べによると寒田神社では、今から凡そ200年前の寛政年間から、輿の前後に大勢のお供が並ぶ華やかな行列が続いていた。
 たまたま、明治維新になり大名行列が行われなくなったことから、後に松田町の初代町長となった中村直次郎が、大名行列が無くなることを惜しみ、小田原藩最後の藩主である大久保忠良に「小田原藩の大名行列の奴振りを、寒田神社の行列に組み入れさせてほしいと願い出て許可されたものだという。
 中村は小田原藩の伴揃いの人足が多く住んでいた小田原市板橋から奴振りの師匠を招いて松田町に伝えたという。この中村の卓抜な発想から、小田原藩の大名行列の奴ぶりは今に伝わっているわけである。
 小田原藩の奴振りをマスターし、寒田神社の大名行列の初代師匠となったのは、松田町庶子で石屋をしていた渋谷小太郎であった。
箱根町が教わった高橋正太郎は実は二代目師匠となるはずであったが、門外不出の奴振りを他町に伝えた、ということで師匠から破門されてしまい、二代目は井上が継いだという。その井上が師匠から聞いた「奴振り」の極意は、挟箱にしても、毛槍にしても、前から見れば一つに見えなければいけない、ということにあった。
 渋谷は「毛槍も遠くから投げるのが見せどころだと、いい気になってはいけない。前の毛槍と後の毛槍が同時に飛ぶことが大事なんだ。そのためには、足をそろえなければいけない。足さえそろっていれば、槍をもっている手も自然とそろってくる理屈だ」と教えてくれたという。また奴の演技について、二人だけ熱演をして、その一人だけが色男になるのではなくて、大勢の奴たちが一挙一動まるで一人で演じているように見せる。そこがミソだ」と、教えたという。まことに味のある言葉である。このようにして伝えられてきた小田原藩の大名行列は、本来何人ぐらいの行列であったのだろうか。

小田原藩の大名行列

 江戸時代、諸大名は寛永12年(1635)に確立した参勤交代の制によって、外様大名は一年おき、関東在住の譜代大名は半年ごとに、江戸と国元を往来しなければならなかった。「参勤」は江戸に出府すること、「交代」は将軍から「お暇」をもらって、国元に帰ることである。
 小田原藩主は幕府の重職についていたから「定府」といって、江戸にとどまることが多く、従って参勤交代の記録がほとんど残っていない。享保十8年(1733)の出府と、九州の唐津の城主だったときの記録しか見当たらない。
 享保18年の『御入部御行列帳』(岩瀬家文書)を見ると、引馬に乗った上級武士三、乗掛馬(馬の両側に明荷をつけ、その上に布団をしいて人が乗る)の中級武士42人、その他、砂士(徒歩で行列の先導をつとめる侍)足軽、中間を合わせると、490人に達する大行列である。
 それより前の万治元年、唐津の城主だったときは、禄高は8万3千石に過ぎなかったのに馬上の武士21人、徒士、足軽、中間を合わせて、1千17人の大行列になっている。
これだけの大部隊を輸送するために、82艘の軍船・荷船と、1千百32人の水夫を必要としている。玄海灘に面したあの美しい唐津湾に82艘もの船を浮かべての大名行列の出発は、まさに一幅の絵であったろう。
 大名行列は、本来は野戦に備えた行軍であった。それ故、宿場で大名が泊まる旅館を本陣といい、本陣には幔幕を張り、徹夜で見張りを立てた。行列の後からは、鍋、釜、七輪、漬物桶まで入れた台所長持が続いた。まさに野戦の名残りである。
 こうした野戦行軍のはずが、次第に、弓や槍を飾り立て、奴が毛槍を投げ合ったりする華美な行列に変っていった。このため各藩とも出費が大きく財政的に悩まされ、農村も人馬の継立に追われて苦しんだ。このため、幕府は再三に亘って行列の数を減らそうとするが、各藩とも江戸での大手御門番、桜田御門番、火消し等の勤務があって、それなりの人員を揃えなければならなかった。
 また節約すれば「殿様貧乏で、長持軽いョ」と雲助唄に唄われるし、他藩に負けたくないという見得もあって、どうしても行列が華やかになっていった。
 そこで幕府は、万治3年(1660)には東海道の一宿で、一日に使用出来る人馬の数を一大名について人足50人、馬50頭と限り、それ以上はその前後の日に使用することと規定した。
 各宿場には百人、百頭の人馬が用意してあったが(箱根宿は馬だけ)大名行列はその半分を料金の安い御定賃銭(幕府が決めた公定の伝馬賃銭)で使うことを認めたわけだが、大名行列はとてもこれでは足りず、これ以上の人馬は相対賃銭といって、馬子や人足と相対で賃銭を決めなければ使えなかった。この相対賃銭は、普通は御定賃銭の二倍であったが、箱根のように山坂のきつい難所で、しかも宿場と宿場の間が遠いところは割増料金が許されていた。それだけに、箱根山中は屈強な雲助が多く集るようになり、雲助といえば箱根というほど、箱根の雲助が有名になってしまった。
 このように宿場で使える人馬の数まで制限したが、それでも大名行列の従者は減らなかったので、老中となった小田原藩主大久保忠増は正徳2年(1712)江戸の藩邸に各藩の留守居役(外交官のような役)を呼んで、大名行列の従者が減らないのは、江戸城諸門番等に華美を競うからだ、として次の注意をした。
 御本城を始め、所々火の番、かねて仰せつけ置かれ侯面々はもちろん、臨時の火消等仰せつけられ侯面々、たとえ20万石以上たりというとも、騎馬20騎に過ぐるべからず。さらに、「所々御門番人数覚え」として、大手御門(15万石以上の譜代大名が守った)給人(馬上の士のこと)20人、侍5人、足軽100人、中間50人。
 等々と、警備の人員を厳しく制限した。それでも大名行列の従者は減らなかったので、幕府は享保六年(172回今度は従者の数を次のように定めた。)

 小田原藩は11万3千石だから、10万石の規定より少し増えたとして、馬上11騎、足軽10人、中間人足170人、計271人、このくらいの見当であろうか。この規定に「徒士」についての制限がないのはなぜか、残念ながら不明である。享保十8年の小田原藩の行列では「徒士」は17人、他に殿様のお駕篭を守る侍が八人いるので、これを加えて300人ぐらいが、11万石級の大名行列と考えてよいのではないか。
 こうしてみると、享保18年の小田原藩の行列は規定より、かなり多いことになる。元禄大地震のあとの城の修築で、財政の苦しい小田原藩が見栄を張るはずがないので、馬上一騎の解釈が違うのかもしれない。このときの行列で引馬に乗った家老の加藤孫大夫以下3人は18人から32人を引きつれ、乗掛馬の42人は、2人から4人の伴をつれている。それにしても、引馬、乗掛馬合わせて45騎は多過ぎるように思われる。今後の研究にまちたい。

 ところで、箱根の大名行列は奥女中、腰元まで参加して、観客の人気を博しているが、実際の大名行列には女性は加わっていない。
これは、大名行列に一回の華やかさを加える観光行事として、大目に見てほしいと思う。この行列の花形である挟箱について、「鋏が入っているのですか」という質問をよく受けるが、これは本来は衣類を入れる箱である。昔は竹を割って衣類を挟み、挟竹として用いたところから、衣類を持ち運ぶための箱を挟箱というようになったといわれている。毛槍は祭礼の鉾にあたるもので、呪術的な意味をもつといわれている。奴の掛け声である「ヒーハーヒー」「エーヤットマカセ」「ヨーヨンヤサササ」の意味は不明だが、「ヒーハーヒー」は、前に記した松田の渋谷は「下に下に」の意ではないかと、話していたという。「ヤットマカセ」は奴振り、奴踊りなどにつく特殊な「はやし詩」で、諸国にあるといわれている。
 江戸時代を今に伝えるこんな素晴しい大名行列が、よくぞ箱根に伝えられたと思う。大名行列を始めた半世紀前の先人の苦心を忘れず、いつまでも形を崩さず、後世に伝えていってほしいものである。

(参考資料『神奈川県民俗芸能誌』上、『広報まつだ』連載「松田の大名行列」)
 写真は、いずれも観光博覧会開催時のもので、安藤利明(湯本)水島隆三(小田原市)提供
 
昭和61年3月31日発行 かなしんブックス ”はこね昔がたり” より引用いたしました。
なお文中の人名は敬称は省略で記載いたします。

写真提供:館蔵(井筒清次郎氏撮影・深沢氏旧蔵)S10
協力:箱根町立 郷土資料館

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